西武新宿線 全駅降りてみます 番外編 田無も戦場だった・・・ その1 [西武新宿線 全駅降りてみます]
今回も番外編
田無市と保谷市は2001年に合併し「西東京市」となっています。 なので、文中では、田無(西東京市)などの表記は省かせていただきます。
突然ですが「HOYA」って言う企業ご存じですか?
クリスタル食器などでもあの会社です。この「HOYA(ホーヤ)」は「保谷(ほうや)町」で1941年 東洋光学硝子製造所として創業。 光学ガラス製造に着手したそうです。
光学ガラス製造・・・軍需工場として・・・
また「住友重機械工業株式会社 田無製造所」が1939年にできており・・・
当製造所は、昭和13年に中島飛行機(株)荻窪製作所田無鋳鍛工場として発足し、戦前は航空機のエンジン部品の製造や完成したエンジンのテストを行っていました。太平洋戦争では、中島飛行機(株)武蔵製作所が航空機エンジンの27%を生産していたことから、米軍の爆撃対象となり、計9回の空襲を受けましたが、当社の建物は樹木が生い茂っていたため、爆弾の直撃を免れたと聞いております。したがって、当社では、戦後も緑の大切さを肝に銘じ、5000本を越える樹木の保存につとめてきました。その一部を「発想の森」と名付けて市民に一般開放しております。
http://www.tgn.or.jp/todenkyo/kigyo/kig_sumitomo.html
より、抜粋
昭和重工業株式会社 1936年・・・のちの豊和工業・・・現在も自衛隊に銃器等を供給している会社・・・
ここの敷地は戦後 石川島播磨・・・IHIのジェットエンジン工場として2006年まで稼働、現在は福島の相馬事業所他へ移管
シチズン時計株式会社・・・も1936年に工場ができ・・・現在本社は田無にあります。
ここも当然、零戦の計器類などを作れるわけで・・・(調べて解ったのは「横河電機」(本社武蔵野市)が計器を作っていた。シチズンが何を作っていたのかは今後の課題です。)
三共株式会社田無工場(食品工場)1940年・・・軍へ納めるイースト菌などを作っていた・・・
などなど、調べれば調べるほど、軍需工場がそこらじゅうにあった町らしいのです。
で、なぜsuzuran6がそんな事を書くのか?といいますと・・・
前回の西武新宿線 全駅降りてみます 番外編 で触れましたが、踏切と踏切の間の怪しい小路について・・・記事としては最近ですが,ずいぶん前から噂は聞いていました。これは調べない訳には・・・と言う事になってしまったのです。
田無の北西部、あのファミリーレストラン発祥の地の「ひばりが丘」に大きな団地「ひばりが丘団地」と言うところがあります。現在は建て替え、再開発が進みつつあり、大変カッコいい街に変貌しつつあります。
このあたりに、「中島航空金属株式会社田無製造所(中島飛行機(株)荻窪製作所田無鋳鍛工場)」(現住友重機械工業株式会社 田無製造所)なるものがあり零戦のエンジンの部品などを作っておりました、さらに、武蔵工場(武蔵野市)で作られた零戦のエンジンの試運転なども行われていた。
この、2つの工場を結ぶ鉄道が存在していた・・・
ネットで検索すると、結構たくさん出てきます。その中でsuzuran6が一番参考にさせていただいているのがこちら
中島飛行機 簡易鉄道 その鉄道は確かに存在した
ここの中で、あの英語だらけの1946年(終戦翌年です!!)米軍作成の地図を知ったのです。
もともと、父親が地図大好きな先生で、中学生位から、国土地理院の2万5千分の1の地図を買いに行かされていたsuzuran6当然地図は大好きですので、その地図に釘付けとなったのはごく自然な事・・・
だって・・・
地図の下の方を見ると・・・「用語」ですね。
-in(院)も-ji(寺)もtemple とか、-kenも-toもprefecture とか、わくわくしませんか?
こちらは「凡例」
3'6'' と書いてあるのは軌間1067㎜の線路・・・で、今の西武線とかJR線がそれにあたります。
4'8 1/2'' と書いてあるのが軌間1435㎜の線路・・・で、新幹線などの広いヤツ
Narrowと書いてあるのはそれ以下で、いろいろあります。俗に軽便鉄道と言っている小柄な鉄道を指します。
それ以外にも、米軍が、日本の地図を素に、航空写真を組み合わせ、終戦後あっと言う間に作ってしまった様子がよくわかります。
玉川上水、現在の小平桜橋のあたりを中心に拡大してみました。
1946年の米軍作成の地図です。
「sakurazutsumi station」とあります。西武多摩湖線の「桜堤駅」1945年に休止、1953年に廃駅となっています。
その上に「water mill」とあります。この当時あちらこちらに水車を動力として使った工場があった様です。
その右には「stone」「wood」等橋の素材が明記されていたり・・・
「BARRACKS」と書いてある所は直訳で「兵舎,兵営」だそうです。
ここは戦前は「陸軍経理学校」だったそうで、戦後米軍に接収され、現在は「陸上自衛隊小平学校」となっている?様です。
見ていて飽きません!!
参考までに1947年の地図
2014年の地図
地図の話にそれてしまいました・・・
そんな地図を見ながら、色々と調べていると
こんな戦争体験記が・・・(抜粋してあります)
「中島には谷戸に田無試運転工場というのがあり、そこまで単線で、大急ぎで、慌ててつくったような線路が本工場から通っていました。私の実家は、角を切られてすぐ近くを列車が行き来していました。中島に爆弾が落ちたときに、その輸送線路が狙われて、兵隊さんが亡くなったりして、辛い思いをしました。それはとてもひどい空襲でした。」
全文はPDFをご覧ください。柳沢の空襲体験.pdfこの中にありました興味のある方はどうぞ。
武蔵野の空襲とその記憶
http://musashino.ficsc.jp/musashino/search.htm?key=%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BD%93%E9%A8%93&tgt=search.htm
武蔵野市のホームページ内にありました。
また西東京市のホームページにも体験談がありました。
http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/heiwa/taiken.html
いろいろと読んで、いろいろと考えてしまいました。
また、話がそれてしまいました・・・
体験記の抜粋した箇所にはっきりと「中島飛行機 簡易鉄道 その鉄道は確かに存在した」に関しての裏付けが記載されていました。
で、戦争の事ばっかり・・・とお思いでしょうが、以前も一度記事内(西武新宿線 全駅降りてみます 番外編 踏切 その 12)で触れましたが、4月12日は
田無空襲の日なのです。
西武新宿線 全駅降りてみます 本編では次回に行く「田無駅」のロータリー内のここに・・・
この様な碑があります。
田無駅前は1996年に再開発が終了したのですが、その際この様な碑が造られたのです。
(西武新宿線 全駅降りてみます 番外編 踏切 その 12)で紹介しました「田無空襲」によって命を落とした方々の慰霊のための観音様もこの一角にあったのですがこの碑の文中にもある様に再開発に際して、歩いて5分ほどの・・・
ここ、総持寺(慶安年間 1648~51年 に創建)に、移転されました。
今回はお寺さんの紹介ではありませんので・・・
ここに入ってすぐの所に・・・
この様に、ありました。
「碑」
「観音様」
このほか、以前ご紹介した「東伏見稲荷」に「中島飛行機武蔵工場」での戦災に会われた方々の慰霊碑もあるとの事・・・suzuran6気付きませんでした、後日、再訪してみます。
こんな記事ですが少しは心に留めていただければと思います。
次回は米軍作成の地図と航空写真で、「幻の簡易鉄道」をたどってみたいと思います。
田無市と保谷市は2001年に合併し「西東京市」となっています。 なので、文中では、田無(西東京市)などの表記は省かせていただきます。
突然ですが「HOYA」って言う企業ご存じですか?
クリスタル食器などでもあの会社です。この「HOYA(ホーヤ)」は「保谷(ほうや)町」で1941年 東洋光学硝子製造所として創業。 光学ガラス製造に着手したそうです。
光学ガラス製造・・・軍需工場として・・・
また「住友重機械工業株式会社 田無製造所」が1939年にできており・・・
当製造所は、昭和13年に中島飛行機(株)荻窪製作所田無鋳鍛工場として発足し、戦前は航空機のエンジン部品の製造や完成したエンジンのテストを行っていました。太平洋戦争では、中島飛行機(株)武蔵製作所が航空機エンジンの27%を生産していたことから、米軍の爆撃対象となり、計9回の空襲を受けましたが、当社の建物は樹木が生い茂っていたため、爆弾の直撃を免れたと聞いております。したがって、当社では、戦後も緑の大切さを肝に銘じ、5000本を越える樹木の保存につとめてきました。その一部を「発想の森」と名付けて市民に一般開放しております。
http://www.tgn.or.jp/todenkyo/kigyo/kig_sumitomo.html
より、抜粋
昭和重工業株式会社 1936年・・・のちの豊和工業・・・現在も自衛隊に銃器等を供給している会社・・・
ここの敷地は戦後 石川島播磨・・・IHIのジェットエンジン工場として2006年まで稼働、現在は福島の相馬事業所他へ移管
シチズン時計株式会社・・・も1936年に工場ができ・・・現在本社は田無にあります。
ここも当然、零戦の計器類などを作れるわけで・・・(調べて解ったのは「横河電機」(本社武蔵野市)が計器を作っていた。シチズンが何を作っていたのかは今後の課題です。)
三共株式会社田無工場(食品工場)1940年・・・軍へ納めるイースト菌などを作っていた・・・
などなど、調べれば調べるほど、軍需工場がそこらじゅうにあった町らしいのです。
で、なぜsuzuran6がそんな事を書くのか?といいますと・・・
前回の西武新宿線 全駅降りてみます 番外編 で触れましたが、踏切と踏切の間の怪しい小路について・・・記事としては最近ですが,ずいぶん前から噂は聞いていました。これは調べない訳には・・・と言う事になってしまったのです。
田無の北西部、あのファミリーレストラン発祥の地の「ひばりが丘」に大きな団地「ひばりが丘団地」と言うところがあります。現在は建て替え、再開発が進みつつあり、大変カッコいい街に変貌しつつあります。
このあたりに、「中島航空金属株式会社田無製造所(中島飛行機(株)荻窪製作所田無鋳鍛工場)」(現住友重機械工業株式会社 田無製造所)なるものがあり零戦のエンジンの部品などを作っておりました、さらに、武蔵工場(武蔵野市)で作られた零戦のエンジンの試運転なども行われていた。
この、2つの工場を結ぶ鉄道が存在していた・・・
ネットで検索すると、結構たくさん出てきます。その中でsuzuran6が一番参考にさせていただいているのがこちら
中島飛行機 簡易鉄道 その鉄道は確かに存在した
ここの中で、あの英語だらけの1946年(終戦翌年です!!)米軍作成の地図を知ったのです。
もともと、父親が地図大好きな先生で、中学生位から、国土地理院の2万5千分の1の地図を買いに行かされていたsuzuran6当然地図は大好きですので、その地図に釘付けとなったのはごく自然な事・・・
だって・・・
地図の下の方を見ると・・・「用語」ですね。
-in(院)も-ji(寺)もtemple とか、-kenも-toもprefecture とか、わくわくしませんか?
こちらは「凡例」
3'6'' と書いてあるのは軌間1067㎜の線路・・・で、今の西武線とかJR線がそれにあたります。
4'8 1/2'' と書いてあるのが軌間1435㎜の線路・・・で、新幹線などの広いヤツ
Narrowと書いてあるのはそれ以下で、いろいろあります。俗に軽便鉄道と言っている小柄な鉄道を指します。
それ以外にも、米軍が、日本の地図を素に、航空写真を組み合わせ、終戦後あっと言う間に作ってしまった様子がよくわかります。
玉川上水、現在の小平桜橋のあたりを中心に拡大してみました。
1946年の米軍作成の地図です。
「sakurazutsumi station」とあります。西武多摩湖線の「桜堤駅」1945年に休止、1953年に廃駅となっています。
その上に「water mill」とあります。この当時あちらこちらに水車を動力として使った工場があった様です。
その右には「stone」「wood」等橋の素材が明記されていたり・・・
「BARRACKS」と書いてある所は直訳で「兵舎,兵営」だそうです。
ここは戦前は「陸軍経理学校」だったそうで、戦後米軍に接収され、現在は「陸上自衛隊小平学校」となっている?様です。
見ていて飽きません!!
参考までに1947年の地図
2014年の地図
地図の話にそれてしまいました・・・
そんな地図を見ながら、色々と調べていると
こんな戦争体験記が・・・(抜粋してあります)
「中島には谷戸に田無試運転工場というのがあり、そこまで単線で、大急ぎで、慌ててつくったような線路が本工場から通っていました。私の実家は、角を切られてすぐ近くを列車が行き来していました。中島に爆弾が落ちたときに、その輸送線路が狙われて、兵隊さんが亡くなったりして、辛い思いをしました。それはとてもひどい空襲でした。」
全文はPDFをご覧ください。柳沢の空襲体験.pdfこの中にありました興味のある方はどうぞ。
武蔵野の空襲とその記憶
http://musashino.ficsc.jp/musashino/search.htm?key=%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BD%93%E9%A8%93&tgt=search.htm
武蔵野市のホームページ内にありました。
また西東京市のホームページにも体験談がありました。
http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/heiwa/taiken.html
いろいろと読んで、いろいろと考えてしまいました。
また、話がそれてしまいました・・・
体験記の抜粋した箇所にはっきりと「中島飛行機 簡易鉄道 その鉄道は確かに存在した」に関しての裏付けが記載されていました。
で、戦争の事ばっかり・・・とお思いでしょうが、以前も一度記事内(西武新宿線 全駅降りてみます 番外編 踏切 その 12)で触れましたが、4月12日は
田無空襲の日なのです。
西武新宿線 全駅降りてみます 本編では次回に行く「田無駅」のロータリー内のここに・・・
この様な碑があります。
田無駅前は1996年に再開発が終了したのですが、その際この様な碑が造られたのです。
(西武新宿線 全駅降りてみます 番外編 踏切 その 12)で紹介しました「田無空襲」によって命を落とした方々の慰霊のための観音様もこの一角にあったのですがこの碑の文中にもある様に再開発に際して、歩いて5分ほどの・・・
ここ、総持寺(慶安年間 1648~51年 に創建)に、移転されました。
今回はお寺さんの紹介ではありませんので・・・
ここに入ってすぐの所に・・・
この様に、ありました。
「碑」
「観音様」
このほか、以前ご紹介した「東伏見稲荷」に「中島飛行機武蔵工場」での戦災に会われた方々の慰霊碑もあるとの事・・・suzuran6気付きませんでした、後日、再訪してみます。
こんな記事ですが少しは心に留めていただければと思います。
次回は米軍作成の地図と航空写真で、「幻の簡易鉄道」をたどってみたいと思います。
2014-04-12 09:19
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コメント(19)
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いつも楽しみに拝見させて頂いています。
僕の実家は武蔵野市で
まさに、中島飛行機の工場の近くでした
戦後、GHQがやってきて
僕が子供の頃は、アメリカの消防署があったり
ラーメン屋さんのメニューが英語併記だったり
子供としては、面白い環境でした。
戦争中の負の遺産としては
頻繁に不発弾が発見されていたことです
子供のころ、よく行った
釣り堀の下から(マンション建設の為の閉鎖後の工事で)
大型爆弾の不発弾が発見され
“爆弾の上で遊んでたのかぁ〜”
なんてこともありました。
遊歩道になった、引き込み線も
子供の頃はまだ、線路だった雰囲気があって
鉄道好きのこどもには
ワクワクする所でしたね。
あ、すいません
地元のことなのでながなが書いちゃいました。
by FTドルフィン (2014-04-12 12:06)
ウチの近くの熊谷も、中島飛行機の本拠地絡みの工場などが多かった
ので、8月15日早朝に空襲があったんですよね。
これがあったので、街中は区画整理され、道路も広くなってますが、かつ
ては大きな宿場町だったはすが、古い街並みは全くといっていいほどあ
りません。
かつての陸軍跡地は、航空自衛隊と熊谷工業団地になっています。
その地名は、「御稜威ヶ原」
読めますかね~!?
「みいずがはら」です。
by やなぼー (2014-04-13 07:15)
HOYAが保谷だったとは知りませんでした^^
英語表示の地図、おもしろそうですね。
by 美美 (2014-04-13 17:16)
田無あたりもそういう理由で空襲を受けたのですね・・・
知りませんでした(驚)
by 獏 (2014-04-13 19:23)
来年で戦後70年を迎えますが、
まだまだ知らない事がたくさんあるんだなぁと。。。
by 銀狼 (2014-04-13 21:28)
空襲とは関係ありませんが、HOYAメガネのCMに広岡監督が出演していたのを思い出します。
by teruteru (2014-04-14 00:24)
企業の歴史を辿っていくと案外、軍需産業の派生の企業さんだということが多いですよね^^
ボクは遠回りというか遠巻き?ですが煉瓦やらから戦争遺構に辿り着き、
そして、え?あの企業さんも実は元々そういう会社だったのね!と驚くことばかりです^^
といいますか古地図を持ってたり知識あるのは非常に強みですね。
さすがsuzuran6さんだなあ^^
歴史を辿る街歩きは今のボクにはヒットです^^
続きが楽しみだなあ~
by ちょいのり (2014-04-14 01:38)
前駅降りてみるって面白いですね。京王線、長い事乗ってますが、降りている駅は10駅ないと思います。
by youzi (2014-04-14 08:25)
FTドルフィン さん おはようございます
ながながと・・・結構でございます。どんどん、コメントください。
1t爆弾などが落ちるとかなり地中奥深くまでもぐりこんだそうですから、なかなか発見されないそうですね。
まだまだ、多摩地区には不発弾が埋まっているのかも・・・
by suzuran6 (2014-04-19 09:11)
やなぼー さん おはようございます
御稜威ヶ原・・・読めません・・でしたが、今では地名の由来もわかります!!
8月の15日とは・・・
熊谷工場がありましたものね。
by suzuran6 (2014-04-19 09:34)
美美 さん おはようございます
HOYA「ほや」ではなく今後はぜひ「ほうや」と読んでください!!
by suzuran6 (2014-04-19 09:36)
獏 さん おはようございます。
軍需工場の街だったんですね。
今でも、散歩をしていると小さな町工場があったりするんですよ。
あと、キャベツ畑!!
by suzuran6 (2014-04-19 09:38)
銀狼 さん おはようございます
子供の頃、戦争の傷跡をほとんど感じなかった札幌で過ごしたものですから、こんな街に住んでいたんだ・・・とビックリでした。
by suzuran6 (2014-04-19 09:40)
teruteru さん おはようございます
あのCM HOYAだったんだぁ~
広岡さんのCMは覚えていますよ。でも「メガネのCM」としてなんです。メーカーまでは・・・
by suzuran6 (2014-04-19 09:42)
ちょいのり さん おはようございます
本当はずぅっと前に田無駅まで、たどり着いてはいたのですが、中島飛行機がらみをどの様に・・・で、時間がかかってしまいました。
ただ、地図と写真は面白いのですが、調整に時間がかかり過ぎます!!
by suzuran6 (2014-04-19 09:45)
youzi さん おはようございます
ここまでは定期券の範囲内ですので良いのですが、ここからは結構経費が掛かりそうです(涙)
by suzuran6 (2014-04-19 09:47)
はじめまして
「田無空襲」のキーワードで検索してこのブログを見つけました。
「シチズンが何を作っていたのかは今後の課題です」ですが
シチズンの記録によると
火薬に点火発火させる雷管、撃針体、遠心体、火道などの6点
21mm機関砲の弾頭(時計信管)、高射砲の時限信管、時限爆弾とあります。
(高射砲弾の信管は、ドイツのクルップ社の開発した時計信管)
やはり、時計がらみの兵器を作っていたようです。
by unseido (2015-03-30 11:52)
unseido さん はじめまして
やはり・・・精密機械工場・・・
貴重な情報ありがとうございます。
by suzuran6 (2015-03-30 14:04)
最近この鉄道の事が気になって、あれこれ探し回ってます。
ぜひまとめのレポートをお願いします。
by ita3 (2015-05-06 14:42)